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静岡地方裁判所 昭和36年(わ)10号 判決 1961年11月10日

被告人 山崎悦三

昭七・一・一生 工員

主文

被告人を懲役一年六月に処する。

未決勾留日数中二百日を右本刑に算入する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(犯罪事実)

被告人は昭和三二年春、妻辰代と結婚して家庭を持ち、翌三三年一二月頃には長女をもうけたがもともと、酒好きでそのための借金もでき、生活が苦しいなどのことから、夫婦間に不和を生じ、昭和三五年二月頃には遂に妻と別居するに到り、その後同年一一月頃には、一旦自己が引き取り養育していた長女をも、些細な一時の感情の縺れから右辰代に引き渡したものの、一面妻の復帰と、親子三人の家庭生活の再現を熱望しつつ静岡県庵原郡蒲原町蒲原一六五八番地の実家に身を寄せ、吉原市所在の大昭和製紙株式会社鈴川工場に工員として勤務していたものであるが、妻との同居生活の話合も思うように進展せず、自然生活も荒び勝ちであつたところ、同年一二月一〇日、勤務先で二万円近くのボーナスを支給されたので、その一部でうさ晴らしに飲酒した挙句、同夜蒲原町内の旅館で外泊し、更に翌一一日も勤先を休み、久し振りに長女に会いにゆこうと思い立つたが、その日も朝から飲酒したためこれを取止め、同町内の知人方を訪ね、或は飲食店で飲酒したりしながら終日を過した後夜に入つて同町西町の軽飲食店蓬来亭に赴き、同店でテレビを観つつ飲酒していたところ、偶々午后一〇時頃右テレビ番組の内容が、養護施設に収容されている幼児の生活を撮したものであり、収容児が久し振りに訪ねて来た母親の顔を見忘れている場面などもあつた為、かねて長女を養護施設に預けては、と周囲からすすめられていたこともあり、かてて加えて妻の復帰の話も見通しのつかぬまま、長女と別れている自己の境遇を思い併せ、自らを不甲斐なく思うとともに長女をいとおしむ気持から堪え難い寂寞感に陥りやりきれぬ淋しさのまま一旦同店を出たものの、再び酒を飲むことによつてこの滅入つた気持を忘却して了いたいと考え更に、同日午后一〇時三〇分過頃、同町柵料理店パールに赴いて飲酒しているうち、閉店を告げられたので、やむなく翌一二日午前零時一〇分過頃同店女中を伴い帰途につき同町本町地先国鉄東海道線通称御殿踏切附近の屋台店で支那ソバを食べた上、午前零時三〇分過頃同女と別れ、同踏切を渡つて実家に向う途次、又もやさきに観たテレビに写つた子供の姿が脳裡に浮び、自分が家に帰つても長女のいない淋しさを想い、酒の酔も手伝つて孤独感、絶望感に陥り、いつそ鉄道自殺をしようと云う気持になり、国鉄東海道線路に沿つて、同町堀川地先右東海道線通称堀川第二ガード附近に到り、暫し線路上に座つていたが、折柄遠く聞えて来た列車通過を報ずる踏切信号機の警音に、はつとして我にかえり、にわかに恐怖感に襲われ自殺を思いとどまるとともに却つてそれ迄の内攻していた感情が異常に反撥し、且つは飲酒の上の余勢もあつて突嗟に線路上に妨害物を置いて列車の往来を妨害し、世間を騒がせてやろうと思いつき、同日午前零時五〇分過頃、同町字堀川地先国鉄東海道線岩淵・蒲原間東京起点一五二・七四八粁附近上り線軌条上に、同所から約六・四五米離れた横井峯吉方裏軒下から持つて来た縦横約二七糎×約二四糎、高さ約二七糎の空瓶入木箱一個を置き、更に右同所附近東京起点一五二・七四三粁附近の下り線軌条上に、同所から約三〇米離れた稲葉勝方軒下から持つて来た直径約四四糎、厚さ約八・五糎のコンクリート塊一個を置き、もつて汽車及び電車往来の危険を生ぜしめたものである。

(証拠)(略)

(法令の適用)

法律に照らすと、被告人の判示所為は刑法第一二五条第一項に該当するが、諸般の情状を考慮して同法第六六条、第七一条、第六八条第三号により酌量減軽をなし、その刑期範囲内で被告人を懲役一年六月に処し、未決勾留日数の算入につき同法第二一条を適用し二〇〇日を右本刑に算入し、訴訟費用の負担につき刑事訴訟法第一八一条第一項本文に従いその全部を被告人の負担とする。

(認定についての補足説明並びに弁護人の主張に対する判断)

本件においては、被告人と判示犯行とを直接結びつける所謂決め手となる物的証拠乃至犯行目撃者等がなく、判示認定の基礎をなしたものは、被告人の自白並びにこれを補強する状況証拠であるが、被告人、弁護人は公判廷において終始公訴事実を否認し、その無罪を主張しているので、主要な争点に関する当裁判所の判断を左に述べることとする。(猶以下において「証言」と云うは、証人の当公廷における供述、又は公判調書、証人尋問調書中の証人の供述記載を、「検証結果」とは当裁判所の検証の結果を、「供述(検)」又は「供述(警)」とは検察官に対する、又は司法巡査乃至司法警察員に対する供述調書中の供述を、それぞれ意味するものとする。)

一、被告人の自白の任意性並びに信憑性について。

弁護人は、

(1)  本件被告人の警察官に対する自白は、取調官の誘導及び詐術によりなされたものである。即ち被告人は、昭和三五年一二月一五日逮捕され、引き続き勾留を受けているうち、同月二一日になつて本件犯行を自白するに至つたが、その間取調べに当つた蒲原警察署の村松源作刑事から「目撃者もおり、証拠も充分揃つている。この辺で自白してはどうか」と慫慂され、且つ「列車妨害と云つても脱線顛覆した訳でないから、大した事件ではない。俺は鬼でも蛇でもないから、俺の懐に飛びこんで来い。妻も帰るということになつているのだから此処ではつきり云つて、勘弁して貰え。仲人にも女房が帰れるように話してやる。検事さんのところえも一緒に行つて許して貰つてやる。」と云われたので、以前自転車窃盗の容疑を受けた時、同刑事から親切な扱いを受け許して貰つたことがあり、又同刑事の言葉が非常に親切心があるように聞えたことからも、自分が自白しさえすれば、本件も同刑事が前件同様に扱つて呉れ、間もなく家へ帰して貰えるであろうと思い、同刑事の云うとおりにしようと考え、同人が云うままに内容もわからず、あたかも被告人がやつた如く誠しやかに虚偽の自白をなしたものである。而して被告人は、この虚偽の自白を思い悩んだ挙句、同日房内で自殺を計つたが未遂に終つた。

(2)  検察官に対する自白も、素直に述べれば、すぐにも許して貰うと云う前記村松刑事の言葉を信じ、ただ帰して欲しい一心から自供したもので、警察以来の任意性のない自白を承継したに過ぎない。裁判官の勾留質問に際しての供述も同様であつて、被告人は法律に無智なために警察官、検察官、裁判官の区別がつかず、すべて警察官の取調が継続しているものと考えていたものである。

従つて被告人の自白はいずれも任意にされたものではないからこれを証拠とすることはできない。

(3)  又仮りに若し、被告人の自白に任意性ありとするも、被告人自白中に述べられた稲葉勝方前コンクリート塊(漬物石)の当初の所在場所と、真実の所在場所が喰い違つており、この重要な点に関する被告人自供が真実でないと云うことは、被告人の自白の他の部分についても真実性を疑わせる重大な事項と云わなければならない。

(4)  猶、検挙より自白に至る迄の捜査経過も不自然且作為的である。捜査官は実質的には本件犯罪捜査を目的としながら、住居侵入なる他の容疑事実で逮捕勾留をなし、爾来一週間を経て、遂に本件自白をかちとつたもので、公正な犯罪捜査とは云い得ない。

旨主張する(弁護人は右の他、自白の内容が事実に反するとして犯行の時間的可能性の問題、並びに体力的可能性の問題を主張しているが、これらの点については状況証拠の関係の項において後述する。)

そこでこれらについて検討するに

(一) 蒲原警察署における本件捜査担当刑事であつた村松源作の証言と、被告人の当公廷における供述並びに被告人の司法警察員に対する各供述調書の記載を総合すると、被告人は、昭和三五年一二月一五日午後住居侵入罪の容疑で右蒲原署に逮捕され、その後引き続き勾留されて右村松刑事の取調を受けたが、同月一九日迄は本件列車妨害事件については特に核心に触れるような取調べはなく、翌二〇日に至つて該事件について本格的な取調が行われたが、その際被告人は同月一〇日から一二日までの行動について相当詳細に述べたのに拘らず本件犯行については否認していたので、同日は右被告人の行動についてのみ調書が作成された。然るに翌二一日午後一時頃から被告人の取調に当つた右村松刑事から、被告人に対し「これ迄の住居侵入容疑の他にも何か間違つたことをしているのでないか」と訊ねたところ、最初は全然心当りはないと答えたもののなお重ねて問われるや、被告人自ら、「線路へいたずらしたことですか」と問い返し、同刑事が「実はそのことを聞きたいんだ、本当のことを云つてくれ」と云つたが、猶も被告人は犯行を否認していたため、同刑事は前日の被告人の供述した同月一二日朝の帰宅時間と、現場附近での目撃者の目撃時間との関係の矛盾を追究したところ遂いに同月二一日午後三時頃に至つて初めて被告人は、「本当のことを云います」と前置して本件犯行を自白するに至つたこと、そこで同日は、直ちに被告人に当時の状況を説明させながら、犯行現場附近の図面を作らせた上、概括的な調書を取るに止め詳細に亘つては翌々二三日更に被告人の供述を求め、本件犯行の詳細に渉つて被告人の自供に基き自白調書が作成されたが、ただ本件妨害物件であるコンクリート塊及び木箱の一部たる木片の現物確認についてはうなだれて了い、全然応答しなかつたこと、などの事実がそれぞれ認められる。尤もその取調の過程において、村松刑事が被告人に対し、列車が脱線顛覆した訳ではないし、大した事件ではない。自分は鬼でも蛇でもない、俺の懐に飛びこんで来い。とか仲人に女房が帰るよう話してやる等の言辞を用いたことは、同証人も自認しているところであるが、このような言動があつたのは、同証人の証言によれば自白後の二六日になつてからであるというのであり、仮にそうでないとしても、捜査官が右のような言辞をろうすることが、直ちに自白の強要ないし詐術による自白誘導として、その自白の任意性を失わしめるものとは考えられない。

(二) 又前記村松証言によると、同人は以前にも被告人が蒲原町内で原動機付自転車を窃取した容疑で緊急逮捕された際、被告人の取調をなしたことがあり、右事件は、被告人が終始全面否認のまま、右村松より厳重処分の意見を付して送検され、且つその際同人のところえ、町内有力者が被告人の貰い下げに来たが、右のような状況から村松に拒否された事実があつたことが認められ、該事件の際、村松が被告人を特に親切に扱つてやつたと認むべき証拠はないし、まして被告人が村松刑事によつて許されたとは考えられないところであつて、「以前自転車窃盗の容疑を受けた時村松刑事から親切な扱いを受けて許して貰つたことがあり、自分が自白しさえすれば、本件も同刑事が前件同様に扱つて呉れ間もなく家へ帰して貰えるであろうと考え、虚偽の自白をした」と云う主張自体、被告人の学歴、前歴に照し直ちに肯認することができない。

(三) 被告人の司法警察員に対する自白の内容を検討すると、犯行前より犯行を経て犯行後に至る間の行動を詳細、整然と供述しており、又捜査官からは窺い知り難い主観的な被告人の心理経過についても、詳細、自然に説明されているのみならず、右自白中、司法警察員鈴木広雄に対する供述の録音テープによれば、右取調官との応答の状況並びに応答の経過、及びそれらを通じて感得される取調当時の雰囲気等も明らかであり、これらの諸点を併せ考えると、右自白が強制乃至誘導に基くものではなかつたと認めるに充分である。

(四) コンクリート塊を、被告人が最初稲葉勝方前に発見した際の所在場所に関する被告人自白と、事実との喰い違いの問題は、被告人が右漬物石所在場所の直近道路脇に突出している埋込鉄環(司法警察員作成にかかる昭和三五年一二月一五日付実況見分調書添附写真(23)参照)に躓いたものと認めるのが相当であつて、これを夜間且酔余であることから、被告人がコンクリート塊そのものに躓いたと錯覚したとしても強ち無理ではなく、弁護人主張の如く、この一事を以てして、自白の他の部分の真実性も疑わしいとするのは当らないと云うべきである。

(五) 被告人の自殺未遂の点について考えてみるに、被告人は前記村松刑事の利益誘導により、自白すれば許して貰えると思いこみ、釈放されたい一心から、同刑事の求めるままを自供したところ、却つて取調後、掌を返した様に、二、三年刑務所に入つて来い、と右村松から云われた為、帰房後、取調官達に対する憤懣、憎悪の情と無念さの余り、遂に自殺を計つた旨主張しているが、右二一日の被告人の自白は極く概括的なものであつて、謂わば自白の端緒に過ぎないものであつたことは、同日付の司法警察員に対する被告人供述調書によるも明らかである。従つて取調官としては、猶引き読いて、更に詳細な自白調書を得る必要があり、このような場合、取調官としては、出来る限り被告人が現在の心境から変化しないことを望むのが通常であろうと解せられるし、況して、仮りに詐術によつて自白を得たのであれば、猶更、詳細な自白調書の完成をみるまでは、その詐術の真相を明らかにして、殊更に被告人の反抗憎悪を自ら求めるが如き行動をとる筈がないものと考えるのがむしろ自然である。地方被告人がその述べる如く、真実、取調官に憤激、憎悪の念を抱き、無念やる方ない余り自殺を計つたのであつたとするならば、翌々二三日の取調に際して、右自白を飜さないのみか、一層詳細な自白をなし、更に検察官、勾留裁判官に対しても、右自白を維持した爾後の被告人の態度は、到底理解し得ないところといわざるを得ない。(尤も被告人は法律に無智なため警察官、検察官、裁判官の区別がつかず、すべて警察官の取調が継読していたものと考えていた旨主張するけれども、被告人の当公廷(第九回)における供述及び被告人の指紋通知票によれば、被告人は過去三回に亘つて道路交通取締法違反、窃盗等の容疑により警察官、検察官の取調を受け、裁判所にも出頭していることが認められるのみならず、被告人は商業学校中等部を卒業していることに徴し、これら取調又は質問に当つた係官の区別がつかなかつたとは到底首肯できない。)被告人が同年一二月二五日付司法警察員に対する供述調書(五葉の分)において、「とんでもない間違いを起して世間に対し顔向け出来ない申訳なさと、女房との復縁話も駄目になつたと云う失望感で、将来に対する望みを失い死を決意した」旨述べているのが、むしろ右自殺未遂の真相であろうと考えざるを得ないのである。

(六) 猶前述弁護人主張(4)の点については、当初から、捜査の主眼は、本件犯罪事実に置きつつ、先づ被告人を他の住居侵入なる被疑事実で逮捕勾留したことは認められるが、現実に右住居侵入の容疑が存在し、且つその捜査が行われた以上、これを直ちに違法であると云うことは出来ず、これを以て被告人自白の任意性を否定することはできない。

以上の点より判断して、被告人の警察官、検察官、勾留裁判官に対する各自白は、いずれもその任意に基く自白であり、且つこれを信用するに足るものと認めるのが相当である。

二、自白の補強となる状況証拠の関係について、

(一)  犯行の時間的可能性の問題について

弁護人は、本件が被告人の犯行であるとするには、時間的関係において不可能であると主張する。

池田喜重、山内雅、曽布川勝次、前橋馬佐和らの供述(警)、司法警察員村松源作作成にかかる昭和三五年一二月一四日付捜査報告書等を併せ考えると、昭和三五年一二月一二日午前〇時五四分頃、判示犯行現場国鉄下り線軌条上を通過した下り一九列車が、本件妨害物である判示コンクリート塊一個に接触し、次いで同日午前一時三分頃、犯行現場国鉄上り線軌条上を通過した上り四八列車が、同様判示空瓶入り木箱一個と接触したこと、それに先立つ同日午前〇時四三分頃、上り一一七四列車が現場上り線軌条上を、同〇時四八分頃、下り一七九列車が現場下り線軌条上を、いずれも無事通過していること、右上り二列車又は下り二列車の間にはいずれも他に通過した列車はないこと、などが認められる。従つて判示犯行はその妨害箇所の近接、結果発生時間の接着よりして、同一人の同一機会における犯行と考えられると共に、その行為は少くとも午前〇時四八分頃から同五四分頃迄の約六分間に行われたものとみなければならない。次に被告人の自白に徴すると被告人は犯行現場附近で少くとも下り列車一編成をやり過した後判示犯行に及んだように述べており、被告人は同日午前〇時四八分頃には犯行現場附近に在つたと考えられる。ところで検証の結果、昭和三五年一二月二一日付司法巡査森下哲雄他一名作成にかかる捜査報告書(以下これを(捜)Aと称する)及び同三六年二月一八日付司法警察員作成にかかる捜査報告書(以下これを(捜)Bと称する)等に徴すると、御殿踏切から被告人自供に添つた経路を辿つて犯行現場に至る徒歩所要時間は、概ね二分三〇秒乃至三分三〇秒位であるから、被告人が犯行前御殿踏切を通過したのは、一応、凡そ同日午前〇時四四―五分頃であると解されるところ、前記検証の結果、並びに(捜)A、同B、高坂重治の証言、押収にかかる運転日報等より勘案すると、右高坂証人は同夜タクシー運転手として勤務中、御殿踏切附近のバーロビンに出向いた際、右踏切上に被告人の姿を目撃したことが認められるが、右目撃時間は、一応同日午前〇時四七―八分頃と推算され、この点時間的関係に一見齟齬を生ずることとなるので、次に一層詳細な検討を試みることとする。

(イ) 被告人自供についての検討

被告人の警察官に対する昭和三五年一二月二一日付、同月二三日付(以上供述調書)、及び同月二六日付(録音テープ)各自白(以下これを順次第一回自白、第二回自白、第三回自白と称する。)は、その細部において若干の喰い違いはあるものの犯行の動機、犯行の手段・方法等主要な点については、概ね一貫しており、本質的な点についての重要な齟齬はないものと解せられるが、ただ被告人が自殺を考えて鉄道線路上にあがり、犯行現場に至つた間の状況について、前記第一回自白は、「(土手伝いに線路上にあがり)自宅へ通ずるガード(以下堀川第二ガードと称する)の上の少し西寄りの線路上に座りこんだ時、近くの踏切りでチンチンと云う信号の音が聞え始め、下り列車が来る様であつた。自分は汽車が近づくに従つて、何だか怖くなり、立上つて線路を出た。それから線路の石を拾つて地面に投げつけたり、自分の頭をレールの上に叩きつける恰好をしてみたりした後、少し東に進んで、そこにあつた線路工夫の使う「はしご」を線路上に乗せようと試みたが、縛つてあつて、思うようにならないので、仕方なく更に東進し、犯行現場に至つて、一旦上り線軌条上に本件木箱を置いてみたが、その時近くの踏切りで信号機がチンチンと嗚り出し、自分は馬鹿々々しくなつて直ぐ木箱を軌条上から降ろした。間もなく下り列車が眼前を通過していつたが、すると又気が変り遂に犯行に到つた。そして犯行を終えて逃げ出す時、近くの信号機が又チンチンと嗚り出した」旨述べている。右状況から考えると、前記「堀川第二ガード上少し西寄りの線路上に座りこんだ時」聞えた信号音の列車と、犯行現場で通過を目撃した列車とは、前者については、特にその通過を目撃した旨の供述がない疑問は存するが、それぞれ別個の列車であつたものと解するより他ないものと思われる。そして前後の状況からして、最後に聞いた信号音の列車は、下り一九列車(現場午前〇時五四分頃通過)、現場で通過を目撃した列車は下り一七九列車(現場午前〇時四八分頃通過)であることも推論に難くない。

ところが、第二回自白においては「鉄道線路に上り、堀川第二ガードの上辺りで線路に座つて待つていると、遠くの方で、踏切の信号音がチンチンと嗚り出す音がかすかに聞え、同時に汽笛の音も耳に入り、はつとして一旦土手の下に降りたが、直ぐ線路の上え駈け上り東の方え少しゆくと、枕木につまづき、そこで足許の線路に敷いてある石を拾つて、力まかせに線路上に叩きつけたりした後、猶東進して「はしご」に気づき、これを掴んで力一ぱい引ぱつたが、持ち上らないので諦め、線路脇で少し座りこんでいると、そのとき確か下り列車と思うが座つている前を通過した。そのあと、現場に到り犯行を終えた時近くでチンチンと云う信号機が嗚つたように感じた。」旨述べている。右の状況からは、被告人が犯行迄に通過を目撃した列車は、一本のみであると考えられ、そして、それが前記下り一七九列車であり、犯行終了の際信号音の聞えた列車は、前記下り一九列車であると解せられる。

次に第三回自白についてみると、「鉄道線路へ上り、やたら淋しくなつて線路の上に座つた。そしたら、チンチン踏切の音が聞えて来て怖くなり、一度線路を降りたが、又上つて東の方へ歩いてゆくと、「はしご」があり、それを投げようとしたが取れなかつた。更に東進して、現場に至り犯行に至つた。木箱を置く前に汽車が通つた。多分「はしご」の蔭辺りでなかつたかと思うが、しやがんで目を瞑つていたので見ていず、上りか下りかは判らない。兎に角汽車が一本通つた。」旨述べており、この状況からも被告人が犯行前通過を認識した列車は、一本とみるのが妥当であろう。而して、右通過列車が第何列車であつたかは、右第三回自白からのみは詳らかにし得ないが、前記第二回自白等と併せ考えてみると、それは下り一七九列車であつたとみるのが之又妥当であろうと考えられる。ところで右のように被告人が当時、犯行前に線路上で通過を認識した列車は、第一回自白では二本であり、第二、三回自白ではいずれも一本であると解せられるのであるが、右第一回自白は、否認を読けた後の最初の自白であり、極めて概括的なものであるに対し、第二回自白は、犯行前日の行動から犯行翌日に至る迄、相当詳細に自己の行動を述べたもので、この間自ら記憶の整理等も可成り正確になされたであろうと思われること、第二、三回自白の間には、被告人が列車通過を認識した場所及び本数について、略々一致がみられること、又第一回自白において通過したとみられる二本の列車は、いずれも下り列車であると思う旨述べられているところ、既述の如く、下り一七九列車に先だつて最も遅く現場を通過したのは上り一一七四列車であつて、被告人が犯行前線路上をうろついている間に下り列車が引き読き二本通る筈のないこと、などを考えると、認識した通過列車の本数並びにその認識場所の点につき、第二、三回自白は第一回自白に比し、より高い信頼性を有するものと云うべきである。

結局、右被告人自白よりすると、被告人が当時御殿踏切を渡つてからの行動は、「踏切を渡つて左に曲り、少し行つた桶屋の前辺りから線路上にのぼり、堀川第二ガード附近で線路上に座つたら、踏切の信号音が聞えて来て怖くなり、一旦土手下へ降りたが、直ぐ又線路上にのぼり、東行するうち、枕木に躓いて、そこで線路の石を拾つて足許に叩きつけたりした後、猶東進して「はしご」に気づき、これを引つぱつたが、取れないので止め、線路脇で少し座りこんでいると下り列車が通過した。そのあと犯行現場へ到り犯行に及んだもの、」と認められるのであり、而して前記の如く右通過した列車は、下り一七九列車と考えられるから、被告人が「はしご」の場所附近にいた時の時刻は午前〇時四八分頃であつたと解せられる。而して、被告人自供の経路による御殿踏切→犯行現場間の徒歩所要時間は、前記のように、二分三〇秒乃至三分三〇秒であるが、右のうち当裁判所が検証の際実測した三分三〇秒の所要時間は、一分間七七歩と云う相当緩やかな足取りのもとに実測した結果であつて、当時の被告人も恐らくこれに隔ること遠くない歩速であつたであろうと推測せられるので、これを標準として考えると、「はしご」の場所から、犯行現場迄の徒歩時間を約三〇秒と見込むと、御殿踏切→「はしご」間の徒歩所要時間は約三分と云うことになる。ところで被告人は、前記の如く線路上にのぼつてから、「はしご」の場所に到る前に、堀川第二ガード附近で一旦腰を降したものと認められるのであるが、この腰を降ろしていた時間につき、第二回自白は「長く座つていたようにも思えるし、瞬間的であつたとも云える」と述べている。又そのあと、土手を降り、再び登り、枕木に躓いて足許の石を拾い上げレールに投げつけ、「はしご」に気づいて、これを引つ張るなどの行動についても、被告人自白からはこれら行為を執拗且長時分に亘つて行つたとの形跡は窺い得ないと共に、これらを具体的身体動作として想起してみても、それらがいずれも一回行われたに過ぎないものであるならば、これら動作に要する時分は極めて僅少であると考えられる。他面、一旦死を想い、次にそれに反撥して、犯行を決意したと云う、謂わば異常な興奮状態にあつた被告人としては、逆に前記当裁判所による実測の際の歩行速度よりも可成り速い歩度をもつて歩いたかも知れない、ということも当然考える余地のあることである。以上彼是勘案すると、被告人が御殿踏切から「はしご」の位置に達して列車通過を迎える迄の所要時間は、短いケースを想定する場合には、精々三分程度とみることも充分可能であると考えられる。(そしてこのことは、検証の結果によると、御殿踏切→犯行現場間が距離的にも僅か一七〇米に過ぎないことからも、充分首肯しうることである。)

従つて、右短時間のケースに拠つた場合には、被告人の御殿踏切通過時刻は午前〇時四五分頃となるが、他面被告人は現場を午前〇時四三分通過する上り一一七四列車は見ていないと認められるから、被告人が御殿踏切上に在つた時刻は、早くとも右〇時四三分以前ではないと解さなければならない。結局約言するに被告人が御殿踏切上に在つたのは、同日午前〇時四三分から、同四五分の間の一時点とみるべきもの考えとられるのである。

(ロ) 高坂運転手の目撃時間についての検討

本件犯行当夜、タクシー運転手高坂重治は、客を乗せ御殿踏切近くのバー「ロビン」に赴いた際、御殿踏切上にいた被告人の姿を目撃したことは既述のとおりである。前記高坂重治の証言によると、同人は同夜蒲原町天王町の蒲原タクシー車庫より、五七年型静五あ一四二〇号小型ダツトサンを運転してサントリー亭にゆき、次いでバー「ロビン」に赴き、一旦引き返して前記車庫附近迄走つたが、その辺りから再びロビンに戻り、更に此処より同町上原町の河野組飯場迄走行して、同所で酔客一名を下車させた上車庫に帰つたこと、被告人を御殿踏切上に目撃したのは最后に「ロビン」を発進して河野組飯場に向う際、車中からで、場所は同踏切前のT字路のところよりであることが認められる。そして押収にかかる当夜の運転日報の帰社(蒲原タクシー車庫えの)時刻の記載と、前記高坂証言中の「運転日報は客から料金等の問い合せを受けた時日報を資料にして答えることがあるので、何時何分迄書く。」「当夜の帰社時刻も正確に記入した。時刻は自分の時計に拠つたが、商売上、駅の時間に関係があるので、自分の時計は正確である」「帰社して運転日報書き入れた上、車の掃除を始めて三、四分して東海道線の方で列車の急停車する音が聞えた。(猶山内雅の供述(警)によると上り四八列車が急停車したのは午前一時三分頃と認められる)」旨の各供述等から考えると、高坂運転手が帰社した時刻が午前一時恰度頃であつたことは略動かし難いところと云わねばならない。そこで右午前一時の帰社時間を基準に、バー「ロビン」より上原町河野組飯場を経て蒲原タクシー車庫に到る間を、当夜と出来るだけ近い条件のもとに自動車を走行させ、測定し得られた所要時間によつて、逆算計算を行うならば、高坂運転手が御殿踏切上に被告人を目撃した時間を推定しうる理である。

ところが、検証の結果、或は前記(捜)A、乃至Bにおける測定の結果をみると、バー「ロビン」前より河野組飯場を経て蒲原タクシー車庫に到る所要時間は次のとおりである。

(猶測定はいずれも昼間行われ―尤も(捜)Aにおいては、測定実施時間の記載がないから疑問ではあるが―高坂運転手の述べる当夜の経路並びに速度((時速毎時四〇粁))に做つて為されたものである)

(a)検証の結果  (i)一一分三七秒 (ii)一一分一〇秒三

(b)(捜)A測定結果  一一分五〇秒

(c)(捜)B測定結果  一一分二八秒

同一の径路で、同一の速度を標準として、実測を行いながら、右の如く、最高約四〇秒の時差が生ずるのは、当該走行時における道路、交通の状況が一様でなく、例えば、交通量の多寡、追従前車の運転速度等によつて、必しも常に毎時四〇粁の標準速度では走行しえないであろうこと、信号待、横断車待乃至は他車、歩行者避譲など減速、除行、停止などの条件が区々であろうこと、等を考えると極めて当然のことであると解せられる。そして右の如き外的条件の影響を考えると、僅々四回の実測結果を以て、その走行所要時間の最大限乃至最小限を画するのは無論適当でなく、寧ろ右測定結果は、一応の標準乃至目安を与えるに過ぎないものとみるのが妥当であろうと思われる。加うるに右実測は、いずれも昼間行われたものであるに対し、本件実際の走行は歳末の夜間であり、殊に高坂運転手の証言によれば、同人の車輛は、当夜国道一号線(通称東海道)を経由していることが認められるが、昼間に比し交通量の著しく増大する夜間且つ歳末の右国道一号線に横道より入り、これを走行するには、当然右実測当時より以上に走行時分を要したであろうことが容易に推測される。そうすると、現実に則した妥当な走行所要時間と云いうるには、右実測値に、猶少くとも一、二分程度の時差を加えた時間の幅を以てみることが、相当ではないかと解せられるのである。

次に高坂運転手は、既述のとおり河野組飯場で酔客を下車させているのであるが、これに要した時間は前記測定値には含まれていない。高坂証言によると右酔客は、車内で嘔吐し、又車が河野組飯場に到着した時も、自ら下車することが出来ない有様であつた為、高坂運転手が車外に降りて、外から手を引つぱつて下車させたものであることを認めることが出来る。更に高坂証言はこの点に関し、右酔客を下車せしめるに要した時間は精々三―四〇秒であると述べているが、この点については、右酔客が車内で嘔吐までし自力で車外に出ることも出来なかつたとすれば、既に所謂泥酔の域にあつた者と解する他なく、車を停止させ、運転手が車外に降りて、かような泥酔者を下車せしめ、且つ料金の支払を受け再び乗車して車を反転させ、出発するに要する時間が、僅々三―四〇秒であつたと云うことは常識上到底首肯出来ないところであり、車を停め右のような行為を完了して再び車を発進させるには、少くとも二―三分の余裕は必要であろうと思われる。

そうすると結局前記各所要時間実測々定値には一―二分プラス二―三分、即ち三分乃至五分の余裕を見込むことが可能であり、且つ適当であろうと解せられる。そこで右余裕を前記各測定値に見込んだ上逆算計算すると、高坂運転手の最も早いバー「ロビン」前出発時刻(従つて又それは被告人目撃時間とも殆んど一致する)として、午前〇時四三分一〇秒、最も遅い前同出発時刻として、午前〇時四五分五〇秒が算定される。結局前記実測々定値にも拘らず、同日午前〇時四三分一〇秒から〇時四五分五〇秒の間において、高坂運転手が「ロビン」前を出発した(つまりは被告人を目撃した)、ということもありうると云う、合理的な根拠と充分高い可能性が存すると解せられるのである。

(ハ) 以上(イ)及び(ロ)を総合対比すると、被告人は概ね〇時四三分乃至四五分の間の一時点、御殿踏切上にあつたと認められるのであり、他面高坂運転手の「ロビン」前出発時刻は、〇時四三分一〇秒から同四五分五〇秒の間の一時点とみることが可能である。一方前記検証の結果及び(捜)A並びに同Bによると、判示犯行行為自体、即ち妨害作業を為すに要する時分は約一分一四―五秒であり、又犯行現場より自宅迄の帰宅所要時分は二分乃至二分半位であるところ、前示被告人の犯行現場附近での行動と、その際の現場通過列車との関係よりみて、被告人の犯行に利用しえた時間は、少くとも五分内外はあつたと考えられ又井上理平の供述(警)及び司法警察員作成にかかる捜索差押調書添附の発信交換証(謄本)によると、同夜被告人が自宅から島田への電話を申し込んだのは午前〇時五九分で、犯行後約四―五分の余裕があるから、妨害作業時間並びに帰宅所要時間の関係では問題がない。そうすると、高坂運転手の被告人目撃時間が、前記同運転手のバー「ロビン」前出発推算時間と、被告人の御殿踏切上にいた推算時間との時間関係が重なり合う範囲内に存する限り、被告人の犯行は可能な訳であり、これを要するに、被告人の犯行の時間的可能性は充分ありうると云わなければならない。

(二)  犯行の体力的可能性の問題について

弁護人は、被告人が元来病弱であり体格も貧弱であつて、加うるに本件事件当日は朝より一升五合以上の酒を飲み読けて体力が弱つており、本件コンクリート塊の如き七貫余もあり、把手のない円形の極めて持ち難いものを抱えて、急な勾配を上り、本件犯行をなすことは、到底不可能である旨主張する。

山崎千枝子、山崎健之助、工藤秀雄、深谷慎三らの証言山崎千枝子の供述(警)等を総合すると被告人は幼児から特に大病を患うこともなく成長したが、昭和三二年頃大腸炎を患つて約一ヶ年入院生活を送つたことがあり、現在も必しも頑健な方でないことは窺えるが、他面本件犯行当時特段の疾患もなく、常人に比し著しく病弱乃至非力であつたと認められる節もない。却つて、時折の欠勤はあつたにせよ勤務先大昭和製紙株式会社鈴川工場の、三交替制の、従つて夜勤もしなければならない勤務を読けて来たことから考えると、一応の体力及び健康は有していたものと云うべきである。又当日朝からの飲酒で体力が弱つていたと云うけれども、アルコール飲料が熱量の高い、気分昂揚性々質を有するものであることを思うと、終日の飲酒が常に直ちに体力消耗を来すものとは考え難いと共に、被告人の警察官に対する供述及び当夜午前〇時三〇分過頃迄被告人と行を共にした岩月さとじの証言並びに供述(警)に徴しても被告人が当時朝来の飲酒のため、急激に体力衰弱を来していたことを窺わせるに足るものはない。而して本件コンクリート塊が約二七kg余の円盤形のものであることは認められるが、頑健強力な体力を有する者でなければ、これが運搬は困難であると云う程のものではなく、通常程度の体力力量の者でも、これを運搬することは充分可能であると解せられるので、被告人の当時の体力的条件のもとにおいて、これを約三〇米運搬し、且つその間約一六度の傾斜面を登る(検証の結果による稲葉勝方前本件コンクリート塊所在場所より犯行地点迄の経路)ことは必しも至難事ではないと考えられる。結局するに、体力的な観点からしても、被告人には判示犯行の充分な可能性があるものと云わなければならない。

(三)  犯行の動機について

被告人の自供によると、被告人は恋愛結婚をした妻辰代と、昭和三五年二月頃別居する様になり、同年一一月頃には一旦被告人方に引き取つて養育していた長女をも些細な一時の感情から妻の里方に引き渡し、その後、右妻との同居生活を熱望しつつもこの話合は一向進展せず、長女を養護施設に預けては、と云うような相談が可成り進んだりしたこともあつて、そのうさを飲酒によつて晴らしていたところ、偶々当夜蓬来亭で見たテレビ番組が判示の如き内容であつたことから、身につまされ、その帰途御殿踏切附近で、寂しさの余り死を考えた、と云うことが、抑々本件犯行の背景をなす事情と認められるのであるが、右事情は山崎千枝子の証言、供述(検・警)、山崎辰代の証言、水谷林太郎の供述(警)等により充分裏付けられるところであり、当時被告人が心理的に如何に鬱積した毎日を過していたかは察するに難くない。岩月さとじの証言よりも被告人は酔うと沈み勝ちで、神経質な何か悩みがある機な様子をみせ、愚痴つぽいところがあつた。又子供があるのに女房と別れており、子供のことを思うと頭に来てしまう、とか、女房のことを思うと死んで了いたいと云うようなことを云つたり、パールえ来ると、島田の妻のもとえよく電話をかけていた。などの事実が認められるのであつて、この様な被告人が、その怏々として楽しまない心境から、死への想いに捉われ、暫しはその魅惑の中に沈潜して行つたものの、やがて聞えて来る踏切信号機の警音に、突如恐怖に襲われて我れに返り、その決意を放棄すると共に、却つて逆に、それ迄の内攻し、抑圧された心理が、酔いも手伝つて、異常に反撥し「何くそ死んでたまるか」と考え、何か思いきつたいたずらをして世間を騒がせてやれ、(そうすれば少しは抑圧された心理状態から解放されて気が晴れるであろう)と考えて、判示犯行に及んだとしても、その心理の経過は決して不自然ではなく、この様に自己自身に対する内心の非難や抑鬱感を、外部的な他の事件に置き換えることによつて逃避する傾向は弱い人間の心理過程として充分に首肯しうるところである。

要するに動機の上からみても、被告人には判示犯行を犯すについての充分な合理性が(客観的にも、主観的にも)あつたものと云わなければならない。

三、弁護人の心神喪失若くは心神耗弱の主張に対する判断

弁護人は、仮りに本件犯行が被告人の所為であつたとしても、当時被告人は酒に酔い心神喪失乃至は心神耗弱の状態にあつたものである、旨主張するので判断するに、被告人の自供、戸塚みちえ、吉川まさ子の供述(警)、岩月さとじの証言並びに供述(警)等を総合すると、被告人は犯行前日の昭和三五年一二月一一日午前九時頃から、同日午後一二時頃迄の間に、「おかめ」で酒コツプ三杯位(午前九時頃)、鈴木初男方で同人と共にビール三本(午前一〇―一一時頃)、パールで酒銚子五本位(午後二時頃)を飲み、午後四時頃再度右鈴木方に立寄つて、午後七時頃迄仮眠の後、更に蓬来亭で酒コツプ四杯位(午後七時頃から)、再びパールで、女中達にも飲ませながら酒銚子三本位(午後一〇時頃から)を飲んでいることが認められる。従つて右鈴木方のビール三本と二度目のパールとでは、被告人一人で全部を飲んでいる訳でなく、又通常飲食店における銚子コツプの容量は、約〇・一二六立(七勺)程度であるとしても、被告人の当日の飲酒量は相当多量であつたと云わなければならない。ただ併しそうであるとしても、右は午前九時頃から午後一二時頃迄約一五時間に亘り、且つ断続しての飲酒であり、加うるに前記のとおり夕方鈴木方で仮睡して或る程度酔を覚ましているとみられること、被告人は平素から飲酒能力の高い所謂酒に強い方であつたこと、等を考えると、右飲酒量から直ちに被告人が当夜著しく酩酊していたとは速断できない。のみならず前記岩月さとじ、高坂重治、山崎辰代、早坂幸一の各証言等に徴すると、同人等はいずれも、被告人は酔つてはいたが、そうひどい酔い方ではなかつた旨を述べており、殊に右岩月によると、同人は過去に被告人と肉体関係があり、一度は、被告人が酩酊していた為、関係を結んだものの満足しえなかつた等のこともあつて、被告人が普段酩酊している時の様子を知つているが、当夜「パール」より「ロビン」前にかけての間、被告人は普段酔つ払つているときに較べて正常であり別に酔つ払つた気配はなかつた、と述べており他面、被告人の供述は当夜の自己の行動につき可成り詳細且つ明確に述べており而も「ロビン」前に到る迄については、前記各証人供述者らの証言乃至供述の内容とも略々一致するのであつて、これに加えて、被告人が帰宅後島田市に住む別居中の妻辰代に長距離電話して通話している事実等を総合して考えると、被告人が本件犯行当時或る程度酔つていたことを窺知するに十分であるが、そのため是非を弁別し又その弁別に従う能力を欠き、或いはそれが著しく困難であつたと云う程酩酊していたとは到底認められないのである。

従つて弁護人の被告人が当時心神喪失乃至心神耗弱の状態にあつたとの主張は採用しない。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 石見勝四 滝田薫 西岡宜兄)

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